河合隼雄先生の「こころの声を聴く」という対談集を読んだ。その中の多田富雄先生との対談で、「男にとって女は異物ではないが、女にとって男は異物である」というのは、理屈でわかっていても明らかに言われないと気がつかない視点で、面白かった。自己と他者の境界がどのように出来るのか、それがどのようにダイナミックに変化していくのか、そういうものと脳機能の関係が明らかにできると、とても面白いと思った。また、非自己に対する免疫系の不寛容性が、種族が近ければ近いほど高いというのは、ヒトも普段の生活で相手が近親者であればあるだけ不寛容になるのと似ていて面白い。
最近常々思うのだが、自分が女性だったら受け入れてもいいと思う男性が身の回りに自分を含めて殆どいないということに驚いてしまう。というより、自分が女性として受け入れても良いと思うような知り合いの男性を思い起こす事は殆ど不可能に近い。もちろん、自分を含めてですけど。逆に、男性としての自分ではそんなことはない。 この明らかな非対称性と、現実の世の中は相容れているようには見えない。とするなら、女性の視点は、男のそれを全く異なっているのか、それとも閾値を単純に低く設定してくれているのか、もしくは単純に勇気があるのか?「勇気あるなぁ」というのは、時々見かけますけどw
全くの他人同士が、相手を受け入れる時、境界はどのように設定されなおすのだろうか?親子の間に生じる境界は、おそらく最初は殆ど無くて、徐々に溝として形成されていくのだろうけど、もともと他人同士だった夫婦の境界は徐々に親子の特に母子間のそれに類似したものになっていくのだろうか。そういうものを家族の絆と呼んだりするのかもしれないとぼんやり思った。愛というのは、その境界構築原理の一要素なのじゃないだろうか。

1月 21st, 2008 4:19 pm
女は男を、人間として深く受け止めることは可能です。
親子はより複雑な気がします。
1月 21st, 2008 4:23 pm
最初からですかー?しかたねーなーっていうんじゃなくて?
1月 21st, 2008 6:23 pm
あくまでも男が女を、同じ場所に存在するメスではなく、人間として認めた場合に限って、ということです。
親子の溝はきっと深まっていくでしょうね。近ければ近いほど。