外れてる パワー
1月 29

最近思うのは、「心の理論」っていうのは、僕たちの脳にデフォルトで働いている機能なのではなくて、必要に応じて引っ張りだしてくるものなのじゃないかと。もともと、そんな機能が脳に実装されている訳でなくて、環境と教育の中で身につけるんですよね。多分遺伝的な要素は殆どないんじゃないかと。

というのも、駅とか道とかで怒ってるおじさんとかおばさんを見ていると、どう考えても「心の理論」が実装されているようにはみえない。もしかしたら、相手の視点からモノを考える能力は、ヒトであれば誰にでも備わっているデフォルトの能力だっていうのは勘違いで、本当は違うんじゃないかと。もともと、そういう機能は無いものだと考えると、ヒトの世の中は結構すっきり理解できるような気がします。 「心の理論」なんか無くても普通に生きていけますからね。先天的に「心の理論」が欠損している病気ってあるんでしょうか?自閉症は、「心の理論」より前から症状出てるから違いますよね。遺伝性こころ欠損疾患って無いでしょう?なら、「こころ」はハードウェアというより、ソフトウェアのレイヤーの事象ではないかと。

そう考えると、宗教の説く慈悲のこころなんかは、わざわざ言葉にして始終大事だって自分に言いきかせないといけないのは、当然ですよね。だって、「心の理論」を常時実装して走らせるには、それを起動して、脳のリソースを大量に消費しないといけない。そういう負荷は脳にとって嫌だから、脳は積極的に理屈をこねてさける。だから、気を抜くと「心の理論」アプリは落ちる。落とさない為には、気を抜けないってことです。実に簡単。
別に「心の理論」なんかを使わなくても、ほどほどの適応行動はできるし、そっちの方が楽。多分殆どのヒトがそういう生き方をしているんじゃないでしょうか。よっぽど時間があるとか、余裕が出てこないと、「心の理論」を常時実装した生き方は出来ないんでしょう。だから出家して、そのことばっかり考えないと慈悲は発現しないんでしょう。社会のルールというのは、「心の理論」がなくても、それに従えば世間的にOKですよというものを定めた、ありがたいものなのかもしれません。

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