認知科学の社会への貢献を考える。おそらく社会は、科学への投資の短期的な回収は望んでいないだろう。科学がそのようなモノに役に立たない事はすでに過去の歴史から実証済みで、もしそれを望むなら、すでに科学は衰退していてもおかしくない。しかし、現実に科学は存続している訳で、それゆえ社会の科学への期待は短期的回収にはないと言って良いだろう。では、何を期待されているのか。
以前に毎日出版文化賞をいただいた時に書いたエントリーで、「科学の目的は、自然が怖いから、灯りをつけて回るため」だと書いた。今でもそう思うけど、それを一歩進めると、灯りをつけるというのはどういう意味なのかと考えなければいけない。
石黒さんは、「ロボットとはなにか?」で、「ロボットを作るという事は、哲学する事」であると言っている。石黒さんは、僕なんか足下にも及ぶ事のできないマッドサイエンティストだが、同書を読みながら、なんとなく似たような事を考えているのだなぁと思った。
もしかしたら、実は、先の灯りをつけて回るということは、石黒さんの言うところの哲学するということなのじゃないだろうか。現実の哲学者は、問題を上手に整理してくれるヒト達だけど、実際の解決能力はあまり期待出来ない。なぜなら、検証に必要な人知を超えた操作ができないから。ところが、科学者はそれができる。自然の中に隠れている、見えないもの、それまで無かったものをひっぱり出してくる事が出来る。それは、僕たちの経験則的な世界の見方、社会の見方を根本的に変える可能性を秘めている。石黒さんは、「タブーを引き起こす事が大事だ。芸術と科学が違うのは、科学はタブーのギリギリを攻めないといけない点だ。芸術はそこを超える事が出来る」と言う。僕もそのとおりだと思う。
半歩先を進むのは振り返れば仲間がいるから安心出来る。だけど、ヒトの道先案内人の役割は果たせない。灯りの役目は他のヒトから少し離れた所に無いと意味が無いから。
離れた所を一人でグイグイ歩くということは、後ろに誰かがついてくるという保証は無いし、不安だらけだ。でも、社会からの投資に応えるためには、そこを果敢に攻め続ける以外に無いに違いないと、石黒さんの本を読みながら思った。つまり、科学者の社会貢献度はその研究態度に現れるということだ。
近頃は、社会還元というお題目が盛んに言われるけれど、ギリギリの所を不安を抱えながら進んでいない科学者には苦痛に違いない。なぜなら、語るべきオリジナルの哲学を持てないから。引用や参照ベースの思索から突拍子も無い変わったアイディアは生まれにくいのだ。
社会還元のためのアウトリーチとは、プレスリリースのように実験の結果を伝える事ではなくて、科学するときに沸き起こる思索の過程と、その結果自分のココロが揺らぐ経験を伝えることなのじゃないか。僕には、今の自分が出来る社会還元はそれ以外には見いだせない。なぜなら、具体的な研究結果の詳細を一般のヒトと共有して、一緒に考える事は出来ないけれど、経験や思索は共有して、より良い社会を作るために一緒に考える事が出来るから。
そこには、サイエンスリテラシーは殆ど必要ないだろう。誰にでも分かる平易な言葉で、思索と経験を語るだけで良いのではないだろうか。それは、科学者以外には出来ない特権なのだ。だから、科学者はもっとその特権を使うべきだ。
石黒さんの「ロボットとは何か」は、そういう視点で読む事をお勧めする。ヒトを理解するためのマッドサイエンス。実に潔く羨ましい方法。僕もマッドという点で負けたくないぞ。
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