テスラを見て感じた事は、なぜこのクルマはネットワークに繫がっていないのだろうという疑問だった。これだけ尖った製品が、外部と繫がっていないということが、正直驚きだった。日産のリーフが、クルマの状態を常に外部のネットワークでモニターするのと違い、テスラにはそれが無い。それが、良い意味での蛮性に感じられた。
このEVについてあるべきものが無いという感覚は、もしかしたらEVがこれから普及していく中での本当に最初にしか発生しない事なのかもしれない。そして、多分それは当たり前の事なので、普及期からEVを使い始めるヒトには、それが無くなる事を想像する事も出来ないだろう。
当たり前のものが無い事を感じる事が出来るという点で、テスラには大きな意味がある。なぜなら、物事の価値は獲得過程にあるから。それはヒトであっても、モノであっても多分同じ。物事の価値を理解するチャンスは、それを獲得するときと、失うときの2回しか無い。
そして、実は何かの特性を獲得するということは、不自由になるという意味でもある。そして失う事でヒトは自由になる。テスラはそういう意味で、自由である。むしろ、あるべきものがないという意味で、そしてフェラーリやランボと違う意味で自由だ。しかも、その自由は今しか楽しむ事が出来ない。
今読んでいる伊藤計劃の「メタルギアソリッド」では、ヒトの身体もナノマシンで中央制御されている世界が書かれている。そして、そこでは中央制御から自由になれるヒトや武器が価値をもつ。それはまるでテスラのようで、その洗練された野蛮さが僕には美しいものにみえる。
これからの世界はおそらくモノだけでなくヒトもネットワークに繫がっていくだろう。そこに繫がらない選択は、おそらく繫がったヒトからみたら野蛮にしか見えないだろう。服を着ないヒトが野蛮にしか見えないように。でも、どこかで蛮性を担保できないと、なんとなく人生はつまらないのではないかとも思う。年寄りの杞憂かもしれないけど、そんな気がする。
“野蛮” に1件のコメント
コメント
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6月 18th, 2010 11:00 am
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