6月 29

今日受けたAXISでのインタビュー中の雑談で、ひょんなことから日本=ガラパゴス問題についての意見を聞かれました。僕は、あまり深く考えていなかったのですが、つい口をついて出たのが、「ガラパゴス化の何が悪いのかが分からない」という答えでした。なんだか、自分でも変な感じがしましたが、その後それについて色々考えてみました。

僕は、人々が様々な問題について議論する時に、「世界の中でも特殊な国である日本は問題である」というような集団的な自己否定から始める事に、いつもうんざりしていました。「僕たちはダメなんだから変わらないといけないのだ」という論調は一見素敵です。だって、ダメな自分を素直に受け入れるのは本当に難しいのですから。だから、それをこともなげに受け入れる自分は素敵じゃないですか?

でも、本当にそれで良いのでしょうか?「今の仕組みがうまく回らないのは何故か?」という議論をするスタート点が、本当にそこで良いのでしょうか?もし、それが正しいのなら、どうして総論賛成、各論反対という結論にいつも落ち着くのでしょう?

僕は、「日本はダメだ」というような、集団を対象とする集団的自己否定には、自分自身への責任の追求が含まれていないのでは無いかと思うのです。そこには、自分も問題の一部であるという認識が含まれていません。つまり、各人の責任の所在は不明確なのです。だから、受け入れやすいし、耳に心地良いのです。

僕は、集団の中で発生している問題解決には、まず自分自身に向き合う事が必要だと思います。何かの変革を成し遂げるには、社会を構成している一人一人が、独立した自己として物事を考えて行動するということが一番大事なのであって、集団を否定する事ではないのです。むしろ、それは害かもしれません。

なぜ集団を否定する事が問題なのでしょう?その理由は二つあります。一つはそれを聞いた既得権益受託者がそれに反発するからです。もう一つは、責任の所在があいまいなので、自分を蚊帳の外に置いて他人事のように考えてしまい、それ以上考えるのをやめてしまうからです。

反発するヒト達は、大抵物事の決定権を持っているヒト達です。ヒトは責められれば反発するものです。しかも、責めるヒト達が自分たちの責任を棚に上げて攻めて来るのですから、反発するのは当然です。となると、物事を変える事がますます困難になります。

僕は、むしろ「ガラパゴスの何が悪い!」というところから始めるのはどうだろうかと考えてみました。まず現状を肯定するところから始めるやり方です。これなら、既得権益を持っているヒト達も反発しません。ガラパゴス化したことには、だれか一人に責任がある訳では無く、歴史的必然でそうなったのですから、間違っている訳がありません。ガラパゴスの動物達が、それ以外の場所の動物と比べて劣っている訳ではないのと同じです。単純に異なる環境で独自に進化した現状を、単純に違うという理由で否定する意味が分かりません。なので、まずガラパゴス化している現状を共有し、それを肯定することから始めてみる。

そして、どうしてそうなったのかの歴史的経緯を振り返って、問題を一つ一つ潰していく。当然、そこには、自己否定と、自己変革のプロセスが含まれます。これは非常に大変な作業です。しかももの凄く遠回りな効率の悪いやり方のようですが、複雑な問題が絡み合って大きな問題を作っている場合、それ以外のやり方は無いのではないかと思います。問題が複数ある場合、最初にスパッと全部の根元から問題を切って、新しい一本の幹にすげ替えることは出来ないのです。「ガラパゴス化=悪」のように、物事を単純化する言説は、人々に心地よさを与えますが、解決には一番遠い道のりだということに、僕たちはそろそろ気がついた方が良いでしょう。

僕は、大抵の問題の原因は自分の中にあるのだという認識から、物事を考えるというやり方を好みます。つまり、最初に向き合うのは自分であるということです。問題の責任を誰かに丸投げするのではなく、まず自分で抱えることから始める。そして、自分一人で持ちきれない時、周りのヒトに一緒に持ってくれるように頼む。重い荷物を抱えて、膝が崩れそうなヒトをみて、放っておけるヒトはあまりいませんから。それなら、みんなで問題を共有出来ます。

そんなやり方が機能する訳がないというかもしれません。でも少なくとも自分自身を変える事は可能です。そういう意味で、僕は「ガラパゴス化」しているらしい日本を積極的に肯定するのです。世界中のあらゆる所で、人々はガラパゴス化しています。そんなことは当然の事です。土地それぞれの独自の文化を発展させる事の何が悪いのか。必要なのは、独自化した文化をつなぐインターフェイスに過ぎません。むしろ、世界を画一化することを目指すのではなく、異なる文化圏を上手につなぐインターフェイスを獲得することなのではないかと思うのです。多分それは、内田樹さんが言う、リンガフランカとしての英語なのかもしれません。ガラパゴス化を否定し画一化した世界を作る事は、別な意味でのガラパゴス化です。そんな世界はつまらない。

つまり、必要なのは、異なる文化をつなぐもう一つのレイヤーを構築する事です。実は、そういうレイヤーはすでに出来ているのだけど、あまりみんな気がついていない。そのレイヤーでのコミュニケーションは、個人と個人が同等に同じ言葉と同じルールにもとづいて、自己の責任を認識しながら話す。そして、それと同時に、それぞれの文化圏で独自の文化を好きなように発展させる。むしろ、そうやって多様性を認めて発散させることが、人類の可能性を広げ、豊かさを手に入れるということなのじゃないかと思うのです。

ガラパゴス化した生き物が、外来種にやられてしまうという構造は、独自文化を認めないという狭量な態度と同じ事です。どんな生き物だって、同じ水を飲み、同じ空気を吸っている。それと同じように、共通のコミュニケーションチャンネルを一つ準備する。僕はそれだけで多様な世界を保ったまま、世界を存続できるのではないかと思うのです。僕は社会も、科学も、インフラ以外のレイヤーで多様化する方向に進んでいくのだと思います。ちなみに、携帯電話の話なんかは、単なるインフラの話なので、 それを一般化して「日本ダメ」って言わないようにね。

どんなヒトだってヒトである事に変わりはない。そして、一人一人は全部違う。そういう視点は、僕が社会神経科学を進めながら気がついたことです。それを科学することの大変さは、並大抵ではありませんが、その分面白い。なかなか理解してもらえないのですけどね。

“ガラパゴス異論” に1件のコメント

  1. Tweets that mention BrainHackers - Naotaka Fujii -- Topsy.comさんのコメント:

    [...] This post was mentioned on Twitter by KUMAYAMA, Jun., Naotaka Fujii. Naotaka Fujii said: ブログ更新 「ガラパゴス異論」 http://bit.ly/9dGFZ0 [...]