4月 26

ぼくは、この瞬間が本当に嫌いだ。まるで自分が用を済ました後に流した水洗トイレが詰まっていて、下水からじわじわと汚水が上がってくる時のような、ぞわぞわする、「キャー、ヤメてぇ!」の感覚。

こころなしか、鼻の奥からは汚水のような臭いがするし、全身は何かベタベタしたヘドロのようなものにべったり包まれている。

 

しかも、上がってくるのが下水じゃなくて自分自身なんだから始末が悪い。とにかく、この瞬間は最悪なんだ。

 

その最悪の瞬間をなんとかやりすごし、鼻の奥がツーンとして、かき氷を急いで食べた時のような頭痛が始まれば、もう目を開けてもいい。

 

そこは、下水管の中でもないし、ヘドロの中でもない。やわらかくて適度に温かいライトブルーのジェルを満たした透明なカプセルの中で、触覚刺激用の専用スーツを着て、ぼくは浮かんでいる。

スーツはこのあいだ自分専用に誂えたばかり。Eクラスが普通に一台買えるくらいの値段がしたけれど、我ながらカッコイイ、はずだ。

 

本当は、ここから出たくなんかないのだけど、今日は疲れているのでここで終わりにする。目の前に表示されている課金額が毎秒少しずつ増えている。今回は8時間のコースだったので、今のところ20万円を少し超えたくらい。

 

後ろ髪を引かれながら、起き上がり、開いたカプセルから外に出る。アルミのステップを一段ずつ降りる。アルミのひんやりした質感が気持ちいい。

 

ぼくは、個人の投資家で、数年前に投資した会社が、あれよあれよという間に大成長して、株式公開にこぎつけた。持ち株の殆どを公開後の高値で売り抜け、結果しばらくはお金には困らない生活が送れる身分になったいわゆるプチ成金だ。

 

その後、しばらくは世界を放浪したけれど、今は何もする気が起きず、ただぼんやりと横になっているだけの、とても高価な遊びで日々を過ごしている。

 

カプセル隣りの回復室でシャワーを浴びた後、手絞りの人参ジュースを啜っていると、廊下に、腹が飛び出た、馴染みのある小柄な人影が見えた。最近、色々なメディアでよく見る某IT企業の社長は、今日も元気そうだ。

 

本当は、もっと安い施設もあるけれど、見栄っ張りのぼくは、ついつい六本木ヒルズ裏手のこの施設を使ってしまう。プチ成金のぼくには、こんなチャラチャラした場所がお似合いだ。

中国大使館向かいの、外見からは何の施設なのか分からない黒い低層の建物は、地上4階、地下6階まであって、カプセルは全部で50台近くあるらしい。ぼくの会員クラスでは地下4階までしか入れないから、深い場所で何が行われているかは噂でしか知らない。多分、さっきの社長は一番深い所に行くんだろう。実にうらやましい。

 

ぼくがカプセルの中で楽しんでいたのは、ブレインマシンインターフェイス(BMI)という技術を応用したOSLOという遊びで、この施設は、OSLO専用の施設だ。こんな体験が出来るのは、SFの中だけだと思っていたのだけど、ちょっとしたブレイクスルーが起きて、ここ5年の間に突然実用化が進んで来た。当然、軍事技術の民間流用。

BMIは、脳のなかに、ごく小さな送受信機を入れる事で、ぼくたちの考えている事を外に伝えたり、外部から脳へ直接情報を与えたりすることが出来る技術のこと。

昔は結構大掛かりな手術が必要だったんだけど、今では外来で処置出来るようになってきた。処置時間は大体30分くらい。もはや虫歯の治療と変わらないし、虫歯と違って痛くない。

 

ただ、同じ自動車にも軽自動車からF1まで、性能に色々なバリエーションがあるように、BMIデバイスの性能も様々だ。医療目的以外のBMIは保険も効かないのでとても高価だし、当然ながら、ぼくら庶民は、最先端の軍用システムを買う事も出来ないから、民生用の普及版しか使えない。

軍用システムは、スーツもゴーグルも使わずに、あらゆる感覚を、脳を直接刺激して操作できるらしい。普及版ではそこまでの事は出来ないので、ぼくたちは、触覚刺激用のスーツを着て、視覚刺激用のゴーグルをかけて楽しんでいる。

OSLOに関しては、軍用と民生用であんまり変わらないという話だけれど、そんなわけないとぼくは思っている。

もちろんお金さえ出せば、軍用システムも手に入れられるけど、維持の手間も費用もべらぼうなので、ぼくはそこまでやる気はしない。多分、地下5階より下にいる、さっき見た社長みたいなヒトたちは、その境界を飛び越えちゃってるんだろう。少し羨ましい。

 

ぼくがBMIデバイスを使って楽しんでいるOSLOシステムの名称は、オスロで開発されたからという話もあれば、何かの略語という話もあるけど、ぼくにはどちらでも良い。

OSLOは、簡単に言うと、自分の感覚を解放して、同時にシステムにつながっているヒト同士の感覚をオンラインでつなぎ、感覚を共有する遊びで、そんなものが楽しいのかと言われれば、実に楽しいと言わざるを得ない。

なんと言っても、OSLOにつながった瞬間に、自分の身体から自分自身が解き放たれる感覚は、とてもことばにはできない。一番近いのは、温泉に入った瞬間の身体がふーっと解放される感覚だけど、OSLOではその感覚が何重にも積み重なって襲ってくる。ただ、実際はそんなもんじゃなくて、こればっかりは、やってみないと分からない。

身体が解放された後、自分がどこにいるのかが全くわからないままに全身が希薄化して拡散して行く。希薄化しながらもどこかの誰かと感覚が共有されて、自分が自分なのか他人なのかが分からなくなる。ぼくの右手の小指が100人とつながっていることもあれば、同時に親指は別の20人と感覚を共有していたりする。つながっている感覚は重さで感じられる。

沢山のヒトと感覚を共有している時、何も考えずに動かそうとするとすごく重いけど、全員の息が揃うと一緒に動かせる。それが100人でやる縄跳びをやり遂げたような新しい喜びになる。しかもそれが全身のいたるところで並行して起きている。

ぼくはOSLOを体験するまでは、たくさんのだれかと直接つながる事がこんなに楽しいことだなんて知らなかった。これは性的な快楽とかとは全く違う。本当にピュアなつながる喜び。ぼくも現実世界で色々な経験があるけど、こんな経験は現実では味わったことがない。

 

 

今は木曜日の夜。午前中にジムで身体を動かして、広尾で蕎麦を食べてからOSLOに入ったのが午後1時過ぎ。だから、もう夜の10時近くになっている。毎度の事ながら、8時間も入りっぱなしだったのに、あまり腹が減ってない。

いつもはOSLOの後は、ぐったり疲れちゃうのですぐに帰るのだけど、今日はなんとなく目黒の自宅に戻る前に一杯飲みたい気分だったので、西麻布のバーへ向かって坂道を降りて行った。

 

暗い坂道をひとり歩いていると、頬をなでる不思議な感覚を感じた。

OSLOの直後によくある疑似感覚だろうと思って気にも止めずに歩き続けると、なにかおかしい。

 

誰かが後ろから両手で目隠しをしている。

 

なんだ、これは!ヤバイよ。

 

ぼくは今、狭い坂の途中で立ち止まり、目を大きく見開いて、正面をはっきり見ている。坂の下の通りを行き交う車がハッキリ見える。

 

同時に、後ろから目を覆われていて、眼球を圧迫する指の一本一本の力の入れ具合までハッキリ分かる。これはどういうことだ?

 

まちがいない。透明な手がぼくを目隠ししている。

 

そのうち、背中に柔らかいものが押し付けられて、ぼくはハッとした。

 

まさか、こいつ女?

 

なんとなく嬉しいような、困ったような、えっ、何、これどうしたら良いの?

 

しかし、うしろを振り返っても誰もいない。

 

こわくなったぼくは、その異様な感触とともに坂を駆け下りた。

 

結局、ぼくはその日はバーには行かず、外苑西通りに出た所でタクシーを拾って自宅に帰った。もちろん、その間も後ろから目隠しされている感覚は残っていた。

 

自宅に帰って、バスルームで上半身裸になって鏡で自分を見ても何も変わった様子はない。気がつけば、さっきまで触られていた感覚も収まって、右の肩甲骨あたりになんとなく違和感はあるものの、いつもの自分に戻ったような気がする。

 

もしかして、これが噂に聞くOSLOの副作用、多重性感覚障害なのかと思ったけれど、変な感じは収まったということで、とりあえず問題は先送りにして寝ることにした。

 

翌朝、特になんの違和感もないし、病院で診察する必要もないなと思って五反田のカフェで遅いランチを食べて、午後は本を読んで過ごした。昨日の事があるので、OSLOの予約はキャンセルした。

 

今日は金曜日で、OSLOのエンジニアをやっている彼女と会う予定だ。彼女とは付き合い始めて3ヶ月。当然一番楽しい盛り。会うのは1週間ぶりなので、色々な妄想が湧いて、ひとりニヤニヤしながら午後を過ごした。

 

彼女とは恵比寿の熟成肉を出すグリルで落ち合って、2件ほどバーをハシゴしてからぼくのアパートになだれ込んだ。

 

ぼくが鍵をあけて、部屋の中に入ると、いきなり彼女がぼくの背中に抱きついてきた。おいおい、ちょっと待てよ、積極的すぎるだろ、まいったなーと思って後ろを振り返るが、そこには誰もいない。

 

彼女は、2メートルほど離れた後ろで、まだ玄関でブーツを脱ぐのにてこずっていた。

 

その瞬間にぼくは目の前が真っ白になって、意識が途絶えた。

 

あとから彼女に聞いたところ、ぼくは、突然「ぎゃー!」と叫んで玄関から続く廊下の中程で倒れたらしい。

 

目が覚めたぼくは、彼女に昨日起こった感覚障害について話をした。すると、OSLOの副作用の多重性感覚障害の恐れがあるから、検査が必要だという。

 

彼女も今日はすっかりそんな気が失せたので、なんなら今から会社に戻って調べてもいいわと言ってくれた。ぼくもとても眠れそうにないので、一緒にタクシーで六本木まで行って、彼女のラボで調べてもらうことにした。

 

ぼくのBMIデバイスは、1週間程度の入出力情報なら体内のロガーに記録が残せるようになっている。なので、ラボの診断用マシンを通じてロガーにアクセスして、データを解析してもらった。

 

白衣姿の彼女はしばらく診断マシンを操作して、画面の情報を真剣に見ていた。その後、ベッドに横になっている僕を上から覗き込んで、あなたの状態は多重性感覚障害としては非定型的だわと彼女は言った。僕を見下ろす白衣からのぞく胸の谷間が素敵だ。

 

非定型的?なにそれ?どういうこと?と聞くと、一般に多重性感覚障害はデバイスがつくる仮想的な感覚なんだけど、ぼくの場合は、実際に外部からの刺激を受けていたらしい。つまり、誰かが実際に触っていたのと同じ状態だって。

 

ふん、ふん、なるほどね。って、ちがーう!ウソだ、そんなこと。誰もいないのにそんなことはあり得ないよと、喉元まででかかった瞬間、また透明な目隠しと、背中には柔らかい感触が。

ピギャー!と叫んでまた倒れそうになるのをギリギリ我慢して、彼女に背中を見てもらった。でも、ぼくはベッドに横になっているんだから、背中にはだれもいるはずがない。

 

で、彼女がキーボードをカチャカチャと操作して、ぼくの皮膚感覚をリアルタイムで脳から抽出して可視化した。画面には、ぼくの全身が赤と青のヒートマップで表示されている。なんだ、これ?全身いたるところに現れては消える手形。ゆっくり動きまわる2本の手。っていうか、その映像を見ながら見えない誰かに触られているの、ほんとうに辛いです。だれか助けて。

 

と思っていたら、彼女が何を思ったか、ぼくに向かって「あなた誰?」とつぶやいた。

 

誰って、オレだよってぼくが言いかけたら、突然全身を触る感覚が消えた。もちろん画面を這い回っていた手形も同時になくなった。

 

何それ?これオカルト?まさか霊なの?

 

結局、ロガーの中のデータをみても、システム上の問題も見つからず、仕方がないので、ぼくの脳内デバイスのファームウェアをアップデートして、再起動してその日は終わった。ぼくも彼女もすっかり疲れ果てたので、結局それぞれの家に帰って、その週末は別々に過ごした。その間に一度だけ軽い発作が1分程起きたけど、ほかには何も変わったことは起きなかった。

 

週が明けて、いつものように予約しているOSLOに行くと、彼女と彼女の上司だというおっさんが受付で待ち構えていた。

怪しげなメガネをかけたおっさん。白衣が汚い。彼女が言うには認知神経工学では相当に有名な科学者らしいが、外見の怪しさが先に立ってまったく信用ならない。ぼくを見る目が、妙にニヤニヤして嬉しそうなのも怪しい。

 

とはいえ、週末にも一回軽い発作が起きた事を伝えると、診察してくれるというので、地下のラボに向かう。

禁断の地下6階。なんだ、ここはこのおっさんの研究施設だったのか。どんな豪華な施設が隠されているのかと期待していたのに、ちょっとがっかり。妙な臭いがするし。

 

金曜日とは違う研究用の診断・解析プログラムを走らせるということで、軽い鎮静剤を与えられて、ぼくはカプセルの中に横たわり、あっという間に意識を失った。

 

どれくらいのあいだ寝ていたのか分からないけど、大嫌いなごぼごぼする感覚にひどい二日酔いが一緒になった、かつてない最悪な気分で目が覚めると、カプセルの周りには誰もいない。

背伸びをして外に出ると、となりの部屋で彼女と上司のおっさんがホワイトボードに変な絵を描きながら議論している。

シャワーを浴びて、服を着てから、となりの部屋に行くと、おっさんがなんだかえらく興奮している。

彼女の目をみて、どうしたのと目配せすると同時におっさんがぼくに気がついた。

 

何かわかりましたか?と聞くと、おっさんはホワイトボードの変な図をペンでバンバン叩きながら、聞いたことのない単語を並べたてて、何かの説明を始めた。とにかく長い。しかも表現が回りくどくてさっぱりわからない。

 

あのヒトの話は誰が聞いても分からないのよと、あとから彼女が教えてくれた。いわゆる天才らしい。

 

で、おっさんが一息にしゃべってゼエゼエしているところで、ぼくは彼女に解説を頼んだ。

 

で、結局どういうことなの?

 

彼女が言うには、今日はぼくの脳内に埋め込まれているデバイスを使って、あらゆる組み合わせで手当たり次第にぼくの脳を刺激したらしい。

くそー、だから気分が悪いんだなと思いつつ、それで?と聞くと、本来は存在しない脳のある部分と部分をつなぐ回路が見つかったらしい。で、その回路に注目して、発作が起きたときのデータを確かめたら、確かにそこがバチバチ活動してたんだって。

 

それって、どういうことなの、悪いことなの、まさか死ぬの?と聞くと、バカねと笑われた。

 

多分何も起きないわ。ところであなた夢を見る?と彼女が突然聞く。

 

そりゃ普通に見るけど、どうしてと聞くと、どうもあなたの脳に出来た新しい回路は、明晰夢を見るしくみと似ているみたいだと言う。

 

はぁ?なに、明晰夢?

 

明晰夢っていうのは、自分で夢を見ていると分かった状態で夢を見ることで、夢を自由に操作することができることなのね。明晰夢は普通の人でも訓練すると見ることができるようになるんだけど、あなたの場合、完全に覚醒しているのに、夢が現実の中に現実として混ざっちゃうみたいなのよ。

 

それって妄想と違うの、やばくない?

 

うーん、この間見たみたいに、誰かに触られているときのあなたは、脳からみたら間違いなく外部から本当に触られているのと全く同じ刺激を受けているのよ。妄想の場合はそれと違って、基本的に大脳皮質で完結している。でも、あなたの場合はもっと感覚入力に近い下位のレベルでの感覚が操作されているの。

 

操作ってなんだ?実際にはだれも触ってなかったじゃないか?

 

そうなの、だからうちの上司が興奮してるのよ。あなたの脳は、いうなれば夢を実体化しちゃう回路が出来上がっているみたいなのよ。実体化と言っても、あなたの身体の中で完結している主観的な経験だから、実体験化っていうほうが正確なんだけどね。

 

なに、その実体験化って。もしかして、なんでも思ったことが実現出来る神様みたいな感じなの?マジで?それスゴイじゃない。

 

あなた、女性に後ろから突然抱きつかれたいって願望あるでしょ!

 

え、なになに、何をいきなり。え、そ、そんなことはないよー。

 

やっぱりそうなのね。

 

どういう訳かあなたの著しく強い願望が脳内で実体化したというのが今回の原因みたい。さっき、調べたら、あなたのOSLO接続時間、世界でもトップクラスよ。いくらなんでもやりすぎよ。

多分OSLOを長時間続けることで、ニセの感覚入力をでっち上げる回路が出来上がって、それが何かのきっかけでトリガーされて、潜在的な願望が実体験として感じられるようになったみたいね。

 

あなたの使っている普及版のBMIデバイスでは、本来そういうことは起きないの。でも、軍用のハイエンドデバイスの場合は、脊髄を含んだほぼ全ての神経系を詳細に制御するから、今回みたいな事が時々起きるの。

あなたは、軍用デバイスがやっちゃうような脊髄レベルを操作する高度な神経操作機能を、安物の普及版を使って実現しちゃったわけだから、わたしの上司は大興奮しているのよ。

だって、そんなヒトは今までいなかったんだから。生物学的には、いわゆる一つの進化形と言ってもいいのかもしれないわよ。

 

え、進化?カッコいいじゃない。でもさ、ということは、進化しちゃったぼくはどうすればいいわけ?

 

特に何もしなくてもいいわよ。だって、あなたはOSLOみたいなデバイスにお金を払わなくても自分の身体的な願望を好きな時に実体験化できちゃうのよ。

 

お、それもそうだ。うん。じゃ、いいか。

 

バーカ!

 

おおよそのあらましが分かったので、彼女の上司の怪しいメガネのおっさんにもう一度話を聞く。今度はおっさんも落ち着いて話してくれて、なんとなくさっきよりは分かった気がした。たぶん。

 

で、おっさんに、今後どうしたらいいのかを聞いてみたら、軍用デバイスでの多重性感覚障害の対応マニュアルはあるのだけど、ぼくのような普及版BMIデバイスでの非定型的多重感覚障害は症状が様々なので、一律の対応は決まってないそうだ。

ただ、今回のような同じ感覚異常のパターンが繰り返しおきるタイプの障害の場合は、感覚パターンフィルターを使えばすぐに対処ができるということなので、ぼくのデバイス用にフィルターをカスタマイズしてもらうことにした。

 

研究室でフィルターを作る作業をしながら、おっさんがなんだかモジモジしている。明らかに挙動不審で不気味だ。

 

なんですか?と聞くと、この件を一例報告で論文にしても良いだろうかと聞いてきたので、丁寧にお断りした。こんなことで有名になんかなりたくない。

 

おっさん、とても残念そう。たぶん、貴重な実験動物を取り逃がしたような気分なんだろう。彼女と付き合っていてよかった。さもなければ、あやうくこのおっさんに騙されて、いいようにされるところだった。

 

カスタマイズしたフィルターをデバイスに転送したところで、おっさんがフィルターのテストをしたいというので、もう一度OSLOに入ることに。

カプセルに入り、OSLO接続の準備を終えて脇を見ると、彼女がニッコリ笑って手を振っているのがカプセル越しに見えた。実に可愛い。

 

OSLOが起動して、ぶわぁわわぁああーっと身体が溶け出していく。数秒もたたないうちに、視覚も、触覚も全てがだれかと共有されている。まるでソラリスの海の一部になったよう。身体は拡張され、言葉はその意味が完全に失われ、意識すらも希薄になる。一方で自分という主体の輪郭はあらわになり、ますます自己の存在が研ぎすまされてくる。そして身体を動かすたびに、驚くべき多幸感が身体中に流れ込む。こんなしあわせを味わえるなんて、この時代に生きていて本当に良かった。

 

 

 

 

 

OSLOが起動して、彼が無事あちらのヒトになったのを確認した博士は、チーズたっぷりのぶ厚いピザを食べながら彼女を睨んだ。

 

でさぁ、この落とし前どうつけるの?ペパロニが一枚床に落ちて、ペタリと音をたてた。

 

すいません。わたし、ちょっと変わった遊びでもしようかと思って、このあいだ彼が寝ているときに、彼のデバイス防壁にバックドア付けてパラメーター色々いじったんですよね。そしたら、そこからハイブリッド型の変なウィルスに感染しちゃってこんなことに。ウィルス駆除しても、ファームウェアを元に戻してもハイブリッド型だから治らないし、わたし困っちゃった。

 

困っちゃった、テヘッ!ですむ問題じゃないんだってば。だって本当は、さっきぼくが入れたフィルターなんて、カプセルから出たらほとんど役に立たないんだよ。だから、たぶんここを離れたら彼は気がふれちゃうよ。さっきみたいな発作がどんどん酷くなるんだから。一体どうするつもりなのさ。

 

うーん、それじゃあ、このままカプセルに入れっぱなしにしておくっていうのはどうでしょう?ここなら発作が起きてもさっきのフィルターで制御できるからみんな安心だし、彼もOSLOで幸せ、会社は儲かる、わたしも助かる、博士も彼を実験に使えるしで、ウィンウィンウィンウィンじゃないですか!もしかしたら、彼、さらに進化してスゴイ事になるかもですよっ!

 

はあ、またか。これでこの施設始まってから5人目だよ。軍に出す報告書は面倒くさいんだよ。君も決められたプロトコルから外れた時の事務処理が本当に大変なの知ってるでしょ?

 

そんなこと言っても、これまでの5人のうち4人は博士の責任じゃないですかっ!4人目のときも、わたし、文句も言わずに報告書作るのをお手伝いしましたよね?今までと同じで、予測不可能な事故でしたっていう報告で何が悪いんですか。

 

博士の身勝手で理不尽な文句に、わたしもついつい声が大きくなる。

 

むぐぐぐ、まあそういう事だな。わかった、わかった、今回はぼくがやっとくよ。

 

博士が案外簡単に折れてくれたので、わたしはぺこりと頭を下げながら実験室を出た。なんだ、怒ればいいのか。今度から、何かあったら怒るようにしよう。

 

目の前でピザを食べるのを見せられていたせいか、わたしもお腹が減ってきた。今日のランチは何にしよう?なんとなくお蕎麦かフォーの麺な気分だわ。わたしはどちらにするか真剣に悩みながらオフィスを出た。

 

Comments are closed.