4月 26

6月30日

青い煙が見える。戻って来た。これまで何度も経験したことだが、やはりホッとする。

 

頭からゴーグルを外すと、少しまぶしい。ぼくがいるのは直径4mくらいの白い球形の部屋だ。その真ん中に置かれた座り心地のいい赤い椅子に僕は座っている。

最近では長時間座っている事が段々苦しくなってきたので、この部屋にはあまりいられないけれど、それでも週に2回、一回1時間程度は入っている。

 

継ぎ目の殆ど分からない白い壁の一部にすっと切れ目が入り、ドアが開いて、少し丈の短い白衣を着た髪の長い女性が入って来た。

 

彼女はぼくの主治医だ。

 

ぼくはこの病院のホスピス病棟に入院している。ホスピスは、ガン等の病気で、現在の医療では対処が出来ない致死的な疾患を持つ末期の患者に対して、最後の瞬間までヒトとしての尊厳を保たせてくれるための場所だ。

 

現在62歳だが、先月突然の全身のむくみと歩行困難が現れて入院した。

 

ガンだった。

 

しかも末期。余命は長くて3−4ヶ月。肝臓ガンを原発とする転移が肺にある。肺にはガン性の胸水が貯まっていて、呼吸が浅く苦しい時も多い。肝機能だけではなく、腎機能も低下していて、とにかく満身創痍の状態だ。倒れるまでは普通に生活していたから、突然こういう状態になったことに驚いた。

 

驚いたというのは間違いないけれど、それは別にまだ死にたくないという意味ではなくて、単に自分が死ぬのは今なのかという時期的な問題で、自分の死そのものについては、あまり大きな感慨はない。

もちろん当然ながら色々な葛藤はある。残していくものへの未練だってあるし、痛みのケアのような残された時間の生活の質に関する心配事も多い。

でも、事故のように突然やってくる死とは異なり、自分の人生をまとめる時間がまだ3ヶ月近く残されているというのはそんなに悪いことではない。誰だって必ず死ぬんだから。

 

ぼくは25年の間、東京の郊外で家内と一緒にパン屋を営んできた。その前の10年の修業時代をあわせると、35年間パンを焼き続けて来た。何の変哲もない駅前商店街の小さなパン屋で、なじみのお客さんとの世間話と、店に通ってくれる子どもたちが徐々に大きくなっていくのを見るのが楽しみだった。

息子がひとりいる。小さい頃から機械が好きで、気がつけば家中のものを分解しては組み立てに失敗してゴミの山を作っていた。いまは東北大学の大学院生で、認知神経工学とかの研究室に通っている。もちろんパン屋の仕事には興味はないのだそうだ。

まあ、それも仕方のない事だろう。ぼく一代で作ったパン屋がぼくの代で途切れたとしても、誰も困らない。

 

白い部屋の赤い椅子から車椅子に移り、病室へ向かう。今日は20年前を中心として、その前後2年間の出来事をランダムに編集したものを体験した。

 

白い部屋で使っていたのは、SRラボラトリーズ(SRL)が開発したSRシステムという装置だ。SRシステムの特徴は、現実の延長としての地続きの仮想空間を現実と区別なく体験できること。

 

SRシステムが一般に普及し出したのは25年ほど前。据え置きゲーム機のオプションとして売りだされて、徐々に広まっていった。当初はゲーム用インターフェイスとして使われる事が多かったが、だんだんパノラマ映像を自由に見渡すための体験プラットフォームとして用いられる事が中心になってきた。

 

SRLは多数のパノラマカメラを独自管理している。それは世界中の1万以上の場所に設置されていて、そのパノラマ映像はリアルタイムで無料配信され、蓄積されている。このリアルタイム映像を次々と移動するだけで、世界中を自由に旅して、自分がそこにいるような感覚を簡単に味わうことが出来る。

過去25年間にSRLが記録したパノラマ動画はとてつもない情報量だが、一般の人々がその真の価値に気がついたのは、SRサービスが始まって5年くらい経ってからだった。その真の価値とは、歴史アーカイブとしての価値だった。映像を、時間軸と空間で作られる3次元空間にマップすることで、初めて生まれる価値があることにわたしたちは気がついたのだ。

 

 

SRLが撮影する過去映像データは、撮影後に矛盾無く編集する事が難しい。つまり改竄不可能な25年間1万本のタイムラインから見た人類の活動記録という意味で、SRLが持つ情報の価値は莫大なものとなった。

 

現在では、政治や公共サービスを行っているスペースにSRLのパノラマカメラを入れないということは、その場所での活動そのものが不正であると考えられるようになり、国会から始まる公的機関のあらゆる場所にカメラが設置されるようになった。その結果、より社会全体の透明度が上がったかのように人々は感じている。もちろん、それは建前上のことだが、もはやそれに抗う正当な理由を示すことができるヒトはいない。

 

一旦この仕組みが社会に組み込まれた後には、その流れは不可逆になった。現在のSRLのパノラマ映像データは2次元の場所平面から立ち上がるツリー状の時間構造体そのものであり、それぞれの連続した映像の時間軸上の一点をアンカーポイントとして、それにぶら下がる形で従来の言語的データベースが構築されている。つまり、SRLの時空間に広がるアーカイブ技術によって、25年という短い期間であるが、時間と場所、そしてそこで発生したイベントの意味経験空間を行き来することが可能な、タイムマシンとしての機能が実現された。それは、現代の人類社会には必須の機能として社会に組み込まれている。

 

ぼくが今日体験したSR映像は、丁度20年前を中心とした前後2年の合計4年間の映像で、SRL管理の動画としても比較的初期の映像だった。そのため、映像の質はあまり良くなかったが、それが原因か妙な現実感が生み出され、現在の高精細の映像とは異なる体験が出来た。

 

体験時間は1時間だったが、その1時間の間に、世界中の様々な地域の様々な重要なイベントがつながった膨大な情報量を持つ体験シーケンスを体験した。イベントの間には、ぼく自身がその時期に撮影したいくつかのパノラマ映像が挟み込まれていた。

 

気がつけばぼくは20年前の自分のパン屋の中にいる。

 

今より若いぼくが開店したてのパン屋で忙しそうに働いている。作業場ではまだ小さい息子がちょこまか動き回っている。一緒に働いている家内も写っている。

 

SRを使って自分自身を見る体験は何度となくしているけれど、分かっていても毎回少しドキッとする。

 

いつものように、息子はこのあとに本当に美味しそうにクリームパンを食べる。この映像はこれまでも何度もみている。ただ、今回は息子がクリームパンを頬張った瞬間、息子ではなく視線を家内の方にずらしてみた。そこには息子を見る家内の嬉しそうな顔があった。初めて気がついた。

 

それは本当にいい笑顔だった。

 

パノラマ映像は全方位の映像が記録されているので、何度も繰り返し見ても、見逃している情報が沢山ある。今日はこれまでに見逃していた家内の笑顔を見つけた。ぼくが家内と結婚したのは、彼女の笑顔がとても魅力的だったからだ。SR映像の中の彼女は、初めて出会った時と同じ笑顔を見せていた。

 

現実と同じように、今日のあの瞬間にぼくがそちらに顔を向けなければ決して見る事のできなかった20年前の家内の笑顔。SRで繰り返す事ができなければ一生気がつかなかった過ぎ去った笑顔。

 

過去に見逃したものを見つけたから素晴らしいと思うのか、それとも経験内容そのものが素晴らしいのか。いつも悩むけれども答えは出ない。

 

 

病室に戻ると、息子が来ていた。明日から学会参加で1週間ほどアメリカに行くのだという。初めての英語でのプレゼンテーションで緊張しているらしい。出張の間に何かあると心残りだから、ぜひ1週間は死んだりしないで無事に過ごしてくれと笑って帰っていった。

 

彼はいつもそうだ。予想しない物事が起きたとき、判断の線引きが早い。今回のぼくの件でも、泣くでもなく怒るでもなく、冷静に受け止めて、出来ることをしようと言った。

彼の研究室は大学病院のとなりにあるので、朝と晩に15分程度病室に寄ってくれる。朝は彼が買って来てくれるコーヒーを一緒に飲む。ぼくは長時間誰かの相手をするのは正直つらいので、その程度の時間で切り上げてくれるのは助かる。

 

ぼくの体調は日々悪い方向にしか向かっていないけれど、1週間位なら大丈夫だろう。

 

7月8日

今日は息子が帰って来る。初めての発表はうまく行ったらしい。

 

昨晩は足のむくみが痛くてよく眠れなかったが、しばらく続いた原因不明の微熱はようやく下がって平熱になった。原因は尿路感染症だと言われたが、抗生物質が効いてきたらしい。食欲が戻って来たので、赤魚の煮付けと里芋の煮物でご飯を食べた。正直あまり美味しいとは思わなかったけれど、熱が下がって来たらお腹が空いたので少し無理をして食べた。

今日予定していたSRはお休み。

 

 

7月12日

今日は大分体調が良いので、ほぼ2週間ぶりにSRルームに入る。期間は10年前の前後2年間にした。

装着してしばらくすると、白い球状の壁がいつの間にか無くなり、何もない広大な空間に自分一人が座っていることに気がつく。

目の前に、緑がかった煙が立ちこめてSR再生が始まる。

 

パン屋の日常は変化がない。この20年で小麦粉の値段は上がり、増産のための遺伝子操作小麦が当たり前になったけれど、人々が食べるパンはあくまでパンにすぎず、ぼくの世界は全く変わらない。

このころの息子は高校に入る前後で、ぼくが自宅で撮影しているのに気がつくと撮影されることを極端に嫌がった。プライベートな家の中まで撮影されたくないというのはもっともな話だ。なので、ぼくが撮影した映像には、この時期の彼が映っているものは少ない。

 

この頃の彼は野球三昧の生活をしており、彼が大会で活躍する様子は沢山残っている。今回は息子がタグ付けされている映像を中心に構成してもらったので、中学、高校の彼の野球生活を追いかける事になった。

 

考えてみれば、彼が試合をしている様子をライブで見た事は殆ど無かった。パン屋の仕事は殆ど休みがない。ぼくは土日も店を開けていたので、彼の試合を野球場で見る事は殆ど無かった。だから、今回彼のいわゆる野球人生をまとめてみる事ができて、実に感慨深いものがあった。その中にはドラマがいくつかあった。劇的な勝利に繋がる活躍も、涙にくれる残念なものもあった。

 

そのころ彼が伝えてくれた、今日は勝った、今日は負けた程度のことしかぼくは知らなかった。当然その一言の中には、沢山のドラマが詰まっていた事に思いが至らなかった。

 

息子の事をあまりにも知らない。こんなことで良いのか。もっと知りたい。でも時間がない。なぜ今まで彼ともっと話をしなかったのか。時間が足りない。病気が発症してから、初めてもっと生きたいと思った。しかし、それは叶わない。

 

 

病室に戻ると、今日は論文を書き上げないといけないので、見舞いには行けないという息子からの伝言があった。今晩は、明日の朝に彼に伝えたい事を整理しよう。そう思いながらも、疲れが貯まっていたのか、結局夕食も食べずに眠ってしまった。

 

7月13日

朝、息子が立ち寄ってくれた時に、昨日お前の高校時代の活躍をSRで見たよ。あの試合は凄かったなと伝えると、彼はニッコリと笑って、ありがとうと言った。

それからそれまで話した事のないような昔話や、彼がやっている研究の話をした。いつもは15分で出て行く彼が珍しく1時間も病室にいてくれた。ラボには遅刻だけど、昨日論文を書き上げたから時間があるんだ。今日は楽しかったよと笑いながら出て行った。

 

 

ぼくは、これまで真面目に誰にも迷惑をかけずに生きて来たことが自慢だった。パン屋という金儲けには縁のない仕事をしながら、社会の片隅で淡々と生きてきた。ぼくなりに社会を支えていると思っていた。その誇りはいまも変わっていない。

 

ぼくは家内を交通事故で2年前に亡くし、店を閉じ、息子の住む仙台で一人暮らしを始めた。地縁もない仙台で老後を過ごす事は不安も多かったが、家内と長年暮らしてきた家で一人過ごすよりはましだった。家内の死からぼくは逃げ出したのだ。

 

7月14日

体調が昨日と変わっていない事を確かめると、主治医にもう一度SRの時間を取ってもらえるように頼んだ。二日連続のSRに主治医はあまり良い顔はしなかったけれど、午後の早い時間に予約を入れてくれた。

 

緑の煙が漂い、SRが始まった。

 

我が家のリビングのソファに家内が座っている。

 

これを撮影した時期は家内が事故にあう1ヶ月前。虫の知らせだろうか、家内は何かあったときのために、お互いの遺言をSRで記録しようと言い始めた。

その時は、随分不吉な事を言うなと思ったけれど、ぼくたちも年だし、そろそろ店をたたんで隠居することも考えていたから、タイミング的には悪くないかと思って、SRLに公的記録としての申請を行い、記録者立ち会いの元、開封者限定の撮影を行った。

 

ぼくはその映像をこれまで開いていなかった。遺産配分等に関する遺言書を同時に作っていたのと、公的にはSR映像より遺言状に優位性があるから、遺言状だけを用いて遺産処理は終わらせた。映像を開く必要はなかった。彼女の死が本当になりそうで、開くことができなかった。

 

 

ソファに座った2年前の彼女は、少し緊張気味に背筋を伸ばし、いつもより真面目な表情で、ニッコリ笑ってぼくに向かって話しかけて来た。

 

ぼくたちが出会ったときの思い出、子供が産まれたときの喜び、ぼくたちのパン屋を開いたときの嬉しさ、毎日休みも無く朝から晩まで大変だったけど充実した生活、そういうありきたりの思い出をゆっくり1時間近くかけて話してくれた。ありがとうという言葉が途中で何度も出た。でもその途中で、ぼくは彼女にありがとうと伝える事はできなかった。口の中でモゴモゴしただけだった。

 

最後に彼女が立ち上がって、ぼくに向かって大きく頭を下げ、「あなた本当にありがとう」と言った瞬間、ようやくぼくは「ありがとう」と声に出す事が出来た。涙はとめどなく出た。

 

青い煙が漂う。主治医は気を利かせたのか入って来ない。

 

 

夜中に再び立ち寄った息子に、かあさんの遺言SRを見たよと伝えた。彼は事故の直後に自分宛のものを見ていたので、どうだったと聞いて来た。

 

「うん、かあさんだったよ。まちがいなくあそこにはかあさんがいたよ。」

 

「だよね。あそこにはかあさんがいるよね。」と息子が言う。彼は今でも時々会いに行くそうだ。

 

家内の突然の死が受け入れられなかったぼくは、もしかしたら自分の死のことも受け入れてなかったのかもしれないなと思った。家内が死んでからぼくの時間は止まっていた。だから自分の死もなにも判断できなかった。

 

SRで過去を振り返ることで湧きあがった、もっと生きたいという気持ちと告知の事実。両者が揃って初めて自分の死に相対する事が出来た。まず、ぼくは自分の死の理不尽さに怒りを覚え、葛藤し、そして結局一晩経ったところでそれを受け入れた。

 

7月15日

その翌朝、SRLに息子宛の遺言SRの記録を申請した。

 

本当はそんなことはしなくてもいいのは分かっている。1時間程度の記録では、伝えられる分量だってたかがしれている。だけど、ぼくがいなくなった後に聞いてもらいたい事はやはりある。それは、言葉だけでは伝わらない何か。家内がぼくに伝えてくれた事と同じ種類の何か。以前に家内と一緒に作った遺言SRでは伝える事が出来なかった何か。

 

もしかしたら、ぼくの存在そのものを息子に残したいのかもしれない。いつでもそこに戻って来る事ができる、彼にとってのひとつの基準点のようなもの。家内が、息子とぼくに残してくれたものもきっとそういうものだろうなと思う。

 

ぼくには、もう十分な体力が残っていない。病室で遺言SRを撮影することは出来るけど、多分もう一度SRを使って家内に会う事は出来ないだろう。

しかし、それはそれで良い。必要なだけの思い出はもう十分にある。

 

 

 

8月14日

父は、遺言SRの撮影1週間後、昨日、突然の食道静脈瘤からの出血、肝性脳症を経て意識障害を起こし、今日の明け方に眠るように死んでいった。看取ったのはぼく一人。延命措置は行わない約束だったので、静かな死だった。

 

父とは最後の1ヶ月に色々な話をした。

 

これからもSRの中の父や母に会う事は出来る。けれども過去の世界の両親がぼくの問いかけに答えてくれることは無い。ぼくが勝手に会いに行くだけのこと。それでも、ぼくが見逃していた両親についての何かを見つけられるかもしれない。父が母の笑顔に20年ぶりで気がついたように。

 

だからぼくは時々彼らに会いに行く。見逃していたちいさなものがたりを探しに。

 

ぼくたちを現実につなぎとめているのは、身近な人たちとのものがたりだ。それは王様でもパン屋でも子供でも同じこと。大人になるとついつい大きなものがたりに夢中になりがちだけれど、ぼくたちのほんとうの現実はそこにはない。

 

現実はちいさなものがたりの中にしかなくて、そこに向かい合うことで、ぼくたちは初めて人生の意味を見いだすことができる。世界に散らばる無数の現実は、ひとりひとりのこころのなかにあって交わることはないのだ。

 

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