7月 03

ここしばらく、突発的に村上春樹を大量に買い込んで読み続けている。昔読んだものも、読み損ねていたものも交えて。なぜか村上春樹は無くなりがちなので、買い直す事が多い。

特に刺さったのが、「約束された土地で:underground 2」。undergroundは地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー、underground 2はオウム信者へのインタビュー。そして最後に河合隼雄先生との対談がある。

地下鉄サリン事件は、起きてはいけない事件だったし、これからも起きて欲しくない事件。だけど、結局それは起きてしまった訳で、しかもこれからも類似の理不尽な事件は世界の国々で次々に起きるだろう。

となるなら、それを僕たちはどうやって受け入れるかが最大の問題になる。起きてしまった事は取り返しかつかない。再発防止とは別次元の、起きてしまった物事をどうやって受け止めて咀嚼するかを僕たちは考えないとならない。すでに起きてしまった事を無かった事にはできないから。そして、それは国家や共同体の問題ではなくて、あくまで個人の問題なのだ。それに関して、おそらく教育は無力。あくまで自分の問題としてそれに取り組むことが、ヒトが生き続けるという意味に他ならない。

「1Q84」には、10年以上前に河合先生との対談で示された問題点が、一つのものがたりの中のねじれとして示されている。どうしようもないことが世の中には沢山ある。そのどうしようもない事をどうしようもない事だと思えないことがヒトの不幸。怪我をした野生動物は、生きている限りどうしようもない怪我を抱えて、それを当たり前のものとして生きていく。足がちぎれたカブトムシは、何事も無かったかのように歩き続けるけど、ヒトはどうしようもないことが起きた時に、動く事をやめて立ち止まる。動き続けないと死んでしまうのに、原因を誰かに求めて泣き叫ぶ。簡単に説明出来るような原因なんかないし、何をやっても元には戻らないのに。

「現実と言うものがもともと、矛盾や混乱を含んで成立しているものである以上、それを取り除いたものはもはや現実ではない。一見整合的にみえる言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除したとしても、その排除した現実は、かならずどこかであなたを待ち伏せして復讐するでしょう」
underground 2あとがきから

つまり、現実はどんなに不味くても食べ続けて飲み込まないと次に進めない。給食を残しても、食べ終わるまで帰してもらえないように、飲み込む事を拒否した現実は、いつまでも生々しい形で目の前にありつづける。目をつぶっても、それは決して消えない。チクチクした痛みを外に抱えながら、それを無視して生きていくのか、それとも嫌々ながらも飲み込むのか、選択肢は二つだが、前に進めるのは後者のやり方しか無い。時間がかかっても、前に進むには飲み込むしかない。

実は、実験科学もそれに似た所がある。現実でない環境を現実だと言い張って実験をつづけ、その排除した現実に復讐されるという点において。

僕が科学者として直面している問題は、世界をどう受け入れるかという問題と同根なのだと思う。つまり、世界の物事を実験に落とし込む時に、現実のどこまでを刈り込むかの問題。これまでの認知科学は、全部を刈り込んだ後に何を残すかを考えていた。ぼくがやっているのは、どこまで刈り込めば、現実の形をのこしておけるかという考え方。両者は似ているようで全く違う。その違いがわからないで僕たちのやり方を批判するヒトは多いけど、そういうヒトはきっと現実に復讐される。

今日出た「考える人」の村上春樹ロングインタビューは、きっとそういう話が書いてあるんじゃないかと期待している。読むのが楽しみ。ちなみに先日の養老先生との対談も同じ号に載ってます。

7月 01

どうも自分の事を振り返ると、ヒトが見ているのはどうにせよ、僕は保守的な人間ではないかと思われる。しかも、超のつく保守。前のエントリーでも書いたけど、まずは現状を受け入れることが次につながるという認識という意味で。

ヒトはそれぞれの中にストーリーを作っていく生き物で、ストーリーはまったく時間的つながりのないものをコラージュのように貼付けて出来上がるものではない。常に時系列に沿ってゆるやかに変化していかないと納得出来ない。だから、いままで正しいと思っていた価値観が、まったく間違ってるといきなり言われても、過去との整合性が取れないので、受け入れる事が難しい。

なので、僕はまず現状を受け入れる事から始めることにした。それは昔どうやっても受け入れられなくて、でも受け入れるしかなかった事実を経験することによって身につけたやり方。一種の諦観かもしれないけど、ネガティブな意味ではなくて、起きた事は仕方ないよねという意味でポジティブなつもりではある。

そういう意味で”超保守”。でも、これから起きる未来の事はその限りではない。何故なら、未来は受け入れるものではなくて、これから作っていくものだから。なので、今が悪くても、未来が必ずしも悪いままじゃないっていう楽観主義と、何やっても良いんだしっていう無責任さが僕の特徴なのかもしれない。

別にみんなが毎日革新的な事をしなくても良くて、生きている間に、出来る事を出来るだけするっていうだけで良いと思う。だってそれ以上出来ないんだから、仕方がない。もちろん、適材適所ってことがあるから、誰でも何でも出来るって言う訳にはいかないのは仕方ない。それは、僕がオバマになれないのと同じこと。

でも、現状の自分をありのままに認めるという作業を経ないと、世界は暗黒のまま。それが出来ないヒトは、たいていみんな言い訳する。それには、運も自分の属性の一つっていう理解も大事かもしれません。運は目にもみえないし、コントロールもできないけど、理不尽なものをそこにつっこんで納得するには一番簡単で効果的。

一方、自己啓発で金儲けしてるヒトたちは、運の話を決してしないのは面白い。運を認めるとビジネスが成り立たないから。っていうことは、自己啓発モノに頼っても、世界を受け入れる事が出来ないってこと。つまり世界は暗黒のまま。実際、自己啓発ビジネスで食い物にされてるヒトは、ありもしない変な世界の話しかしませんからね。まあ、自己啓発ビジネスが、ヒトの夢をカネに換える仕事だから、目が覚めてもらっては困るんでしょうけど。

6月 29

今日受けたAXISでのインタビュー中の雑談で、ひょんなことから日本=ガラパゴス問題についての意見を聞かれました。僕は、あまり深く考えていなかったのですが、つい口をついて出たのが、「ガラパゴス化の何が悪いのかが分からない」という答えでした。なんだか、自分でも変な感じがしましたが、その後それについて色々考えてみました。

僕は、人々が様々な問題について議論する時に、「世界の中でも特殊な国である日本は問題である」というような集団的な自己否定から始める事に、いつもうんざりしていました。「僕たちはダメなんだから変わらないといけないのだ」という論調は一見素敵です。だって、ダメな自分を素直に受け入れるのは本当に難しいのですから。だから、それをこともなげに受け入れる自分は素敵じゃないですか?

でも、本当にそれで良いのでしょうか?「今の仕組みがうまく回らないのは何故か?」という議論をするスタート点が、本当にそこで良いのでしょうか?もし、それが正しいのなら、どうして総論賛成、各論反対という結論にいつも落ち着くのでしょう?

僕は、「日本はダメだ」というような、集団を対象とする集団的自己否定には、自分自身への責任の追求が含まれていないのでは無いかと思うのです。そこには、自分も問題の一部であるという認識が含まれていません。つまり、各人の責任の所在は不明確なのです。だから、受け入れやすいし、耳に心地良いのです。

僕は、集団の中で発生している問題解決には、まず自分自身に向き合う事が必要だと思います。何かの変革を成し遂げるには、社会を構成している一人一人が、独立した自己として物事を考えて行動するということが一番大事なのであって、集団を否定する事ではないのです。むしろ、それは害かもしれません。

なぜ集団を否定する事が問題なのでしょう?その理由は二つあります。一つはそれを聞いた既得権益受託者がそれに反発するからです。もう一つは、責任の所在があいまいなので、自分を蚊帳の外に置いて他人事のように考えてしまい、それ以上考えるのをやめてしまうからです。

反発するヒト達は、大抵物事の決定権を持っているヒト達です。ヒトは責められれば反発するものです。しかも、責めるヒト達が自分たちの責任を棚に上げて攻めて来るのですから、反発するのは当然です。となると、物事を変える事がますます困難になります。

僕は、むしろ「ガラパゴスの何が悪い!」というところから始めるのはどうだろうかと考えてみました。まず現状を肯定するところから始めるやり方です。これなら、既得権益を持っているヒト達も反発しません。ガラパゴス化したことには、だれか一人に責任がある訳では無く、歴史的必然でそうなったのですから、間違っている訳がありません。ガラパゴスの動物達が、それ以外の場所の動物と比べて劣っている訳ではないのと同じです。単純に異なる環境で独自に進化した現状を、単純に違うという理由で否定する意味が分かりません。なので、まずガラパゴス化している現状を共有し、それを肯定することから始めてみる。

そして、どうしてそうなったのかの歴史的経緯を振り返って、問題を一つ一つ潰していく。当然、そこには、自己否定と、自己変革のプロセスが含まれます。これは非常に大変な作業です。しかももの凄く遠回りな効率の悪いやり方のようですが、複雑な問題が絡み合って大きな問題を作っている場合、それ以外のやり方は無いのではないかと思います。問題が複数ある場合、最初にスパッと全部の根元から問題を切って、新しい一本の幹にすげ替えることは出来ないのです。「ガラパゴス化=悪」のように、物事を単純化する言説は、人々に心地よさを与えますが、解決には一番遠い道のりだということに、僕たちはそろそろ気がついた方が良いでしょう。

僕は、大抵の問題の原因は自分の中にあるのだという認識から、物事を考えるというやり方を好みます。つまり、最初に向き合うのは自分であるということです。問題の責任を誰かに丸投げするのではなく、まず自分で抱えることから始める。そして、自分一人で持ちきれない時、周りのヒトに一緒に持ってくれるように頼む。重い荷物を抱えて、膝が崩れそうなヒトをみて、放っておけるヒトはあまりいませんから。それなら、みんなで問題を共有出来ます。

そんなやり方が機能する訳がないというかもしれません。でも少なくとも自分自身を変える事は可能です。そういう意味で、僕は「ガラパゴス化」しているらしい日本を積極的に肯定するのです。世界中のあらゆる所で、人々はガラパゴス化しています。そんなことは当然の事です。土地それぞれの独自の文化を発展させる事の何が悪いのか。必要なのは、独自化した文化をつなぐインターフェイスに過ぎません。むしろ、世界を画一化することを目指すのではなく、異なる文化圏を上手につなぐインターフェイスを獲得することなのではないかと思うのです。多分それは、内田樹さんが言う、リンガフランカとしての英語なのかもしれません。ガラパゴス化を否定し画一化した世界を作る事は、別な意味でのガラパゴス化です。そんな世界はつまらない。

つまり、必要なのは、異なる文化をつなぐもう一つのレイヤーを構築する事です。実は、そういうレイヤーはすでに出来ているのだけど、あまりみんな気がついていない。そのレイヤーでのコミュニケーションは、個人と個人が同等に同じ言葉と同じルールにもとづいて、自己の責任を認識しながら話す。そして、それと同時に、それぞれの文化圏で独自の文化を好きなように発展させる。むしろ、そうやって多様性を認めて発散させることが、人類の可能性を広げ、豊かさを手に入れるということなのじゃないかと思うのです。

ガラパゴス化した生き物が、外来種にやられてしまうという構造は、独自文化を認めないという狭量な態度と同じ事です。どんな生き物だって、同じ水を飲み、同じ空気を吸っている。それと同じように、共通のコミュニケーションチャンネルを一つ準備する。僕はそれだけで多様な世界を保ったまま、世界を存続できるのではないかと思うのです。僕は社会も、科学も、インフラ以外のレイヤーで多様化する方向に進んでいくのだと思います。ちなみに、携帯電話の話なんかは、単なるインフラの話なので、 それを一般化して「日本ダメ」って言わないようにね。

どんなヒトだってヒトである事に変わりはない。そして、一人一人は全部違う。そういう視点は、僕が社会神経科学を進めながら気がついたことです。それを科学することの大変さは、並大抵ではありませんが、その分面白い。なかなか理解してもらえないのですけどね。

6月 26

今日は、仙台のアパートを売却するための打ち合わせに日帰りで仙台へ。そこで聞いた話は、ちょっと残念なものだった。

まず、仙台では中古マンションを持つ楽しみがあまり無い事。基本的に、新築の分譲価格が安いので、中古物件に付加価値をつけられない。もちろん高い新築物件も多いけど、それは中古価格がどん底の時には単なるムダ。だって買った瞬間にデベロッパーが2−3割持ってくんだから。例えば、仙台のど真ん中に40坪1億超なんていうのも、買った瞬間に7-8000万、10年後の資産価値は多分5000万切るんだから本当にムダ。なので、必然的に選択肢は中古マンションになる。

で、中古の20−30坪のマンションをスケルトンから好きな内装にしようとすると、最低でも1000万はかかる。材料を吟味すれば、簡単に2−3000万ぐらいになる。この金額は、売買価格が5000万前後の物件であれば、なんとか吸収可能な金額だ。例えば4000万の中古マンションの改装に1000万かけても5000万。これは、東京ならアリだ。
でも、仙台で、新築が3000万だとしたら、そんな金額は吸収出来ない。殆どの場合、内装がどんなに豪華でも、中古の不動産価格は、立地と広さ、そして築年数で決まる。新築の相場が3000万ならば、ヒトが中古物件に出すのは半額の1500万以下。当然リノベの1000万は回収出来ずに捨て金になる。

もう一つは、投資物件の動きの少なさ。仙台では、住宅への投資は、20%前後の利回りが出ないのなら、みんな手を出さないのだそうだ。それは、銀行が住宅投資への資金を貸したがらないということもあるけれど、メインテナンスのコストを吸収するには、二ケタの利回りが出る物件じゃないとダメなんだそうだ。これは、上のリノベのコストと同じしくみ。
例えばアパートのメインテナンスに年50万かかるとする。もし、そのアパートの価格が5000万で利回りが7%なら年350万入る。そこから50万引いても6%の確定利回りを確保出来る。じゃあ、マンション購入価格が1000万で利回り7%の物件だとしたら、70万の家賃収入。そこから50万引くと、20万となって利回りが2%に下がる。もし、手取りの利回りを6%確保したいなら、11%の利回りを確保しないと無理になる。つまり、売買価格と家賃が低い地域では、投資自体が成立しないことになる。

結局、税金とリノベのコストが地域であまり変わらないのであれば、そのコストはどこかで吸収されなければいけなくて、それには一定額以上の住宅価格が維持されていなければ成立しない。おそらく、それが出来るのは日本では東京と大阪の一部だけなのじゃないかと思った。特に仙台で固定資産税が高いのは致命的。僕が払っていた仙台の固定資産税は、マンションの査定価格の1%ですが、赤坂のマンションは0.3%。地価の安い所では、この数万円の差が利回りに結構効いてくる。

いずれにしても、地方都市の場合は、土地を買うか、築浅の中古マンションを借りるほうが良いという事になるのだろう。まあ、不動産の値上がりが期待出来ないなら、土地を買う事自体も、実はあまり旨味がなくて、結局賃貸が一番賢いのではないかと思ったりする。でも、そこにはデザインが無い凡庸な物件しか無い。つまり、デザインに対するマーケットバリューが無い事が最大の問題。

いままで地方都市の一般住居にデザインが成立しないのはなぜなのかと思っていたけど、実はデザインを取り入れる事が構造的に難しいってことがわかった。もちろんキャッシュを持っているお金持ちは何でも出来るけど、一般のヒトが自宅を好きなように改装して楽しむことが出来るのは、都会のしかもごく一部しかない。逆に、仙台のようなデザインが構造的に回らない地方都市では、デザインを求めるヒトが育たない悪いサイクルに陥っている。色んな意味でデザインが捨て金にならないような、デザインをappreciate出来る国になると良いなと思う。

6月 23

SDIM0048

今日の雨上がりの緑はとても綺麗でした。こんな写真よりもずっと何倍も綺麗だった。写真って難しいな。

最近は、村上春樹読み返し週間。昨日は「スプートニクの恋人」、今日は「1973年のピンボール」。