7月 14

近頃、社会の仕組みについて色々と考えるとき、僕はその前提になっている「ヒトは本来自由である」という前提が根本的に間違っているのではないかと思うようになった。むしろ、自由な人間は一人もいないというのが、僕の実感。なので、リバタリアンの主張するような”完全な自由”という考え方には全く同意できない。それは何故かを考えてみる。

まず、自由なヒトが自由な脳を持っていると考えるのは、おそらくリバタリアンも同意してくれるだろう。それでは、自由な脳というものが、思考実験を超えて本当に存在するのかと考えると、それは殆ど哲学的ゾンビと同じで、存在する事はないだろうと僕は考える。
なぜなら、生まれ落ちてから、社会的関係性を全く持たずに適切な精神発達を獲得することは出来ないから。つまり、適切な精神発達を獲得した、つまり普通のオトナとして認められているということは、他者との関係をある一定のレベル以上経験しているということを意味する。それは、すなわち、それらの関係性によって、僕たちの脳が、様々な選択制限を受ける可能性を持っている事を意味する。この自己の脳内に常に存在する関係性に基づく制限が、わたしたちを完全な自由から遠ざけている。しかも、それは意識・無意識の両方のレイヤーで発生しているだろう。

そして、この部分的不自由さが、わたしたちを社会と繋ぎ、社会がわたしたちに物事を要請する根拠になると考えていいのではないか。そうやって、社会とヒトを繋げる考え方が、社会の制度設計に非常に重要な要素として機能するのではないかと思う。

一方、自由意志に関しての議論も、僕はピンと来なかった。特に、自由意志が無いという主張にガッカリするということが理解出来ない。なぜなら、根本的にわたしたちの脳が部分的不自由であるとするならば、自由意志なんかたとえなくても驚くに当たらないから。不自由さが微塵でもあれば、それは自由とは呼べないのだし、逆に脳内の不自由さを今以上に拡張する事はおそらく簡単。なので、そこに自由意志の余地がなくても不思議はない。もちろん、その不自由さをある程度コントロールすることは可能だろうが、”完全な自由”を持つ意志というものは存在しないという考えを否定する事はできるだろうか?

また、わたしたちの脳を縛る制限としてどうしようもないものに身体がある。この不自由さをとことんまで無くしたとしても、物質としての脳はあくまで残る。しかも意識が理解出来る脳活動は、脳活動全体の本当に一部でしかない。つまり、物質としての脳は、どこまで行っても自由にはなれない。

つまり、リバタリアンの言う”自由”とは、あくまで自分自身の脳内現象にすぎない。それは仮想の中の仮説であり、世の中に存在しない抽象概念にすぎない。

僕の立場は、心身一元論であり、そうでなければ脳を研究対象とする必要がなくなる。脳は、それと繫がりをもつ様々な関係性によって制限を受けている。その制限の仕組みを明らかにするのが、僕の研究テーマの一つだし、そこから切り込む事で、単独の脳ではない、社会の一部としての脳機能を明らかにできるのではないかと期待する。

自由に価値があると考えるのは実は浅い。むしろ不自由こそ賞賛されるべきだ。深い知性は、不自由の枠の中で、いかに美しい解法を見つけるかに価値を見いだす。そこにこそ創造性や高い知性が宿る。エレガンスとは不自由をいかに克服するかへの挑戦。

7月 11

昨日TwitterのTLを見ていて、困ったなと思った。何が困ったかと言えば、あるひとのtweetに「だんなはこれくらいの酒ですっかり酔っぱらってしまって可哀想」というのがあったから。

アルコールの分解酵素に関しては、遺伝的に個体差がある訳で、僕なんかは全然ダメで、ビール一杯で真っ赤だし、空きっ腹に飲むとあっという間に眠りに入ってしまう。それって、自分の意思ではコントロール出来ない事だから、どうしようもないんだけど、お酒が強いヒトからは「それくらいなんとかしろよ」っていう視線をいつも感じる。「そう言われてもねぇ」なんだけど。

まあ、同じ構図は、女性差別だったり、人種差別だったり至る所にあるのだけど、そのそれぞれのCongenitalな要素毎に、ヒトは差別に無自覚になれるという事らしい。アルコールの事も、皮膚の色と全く同じく、個人の努力の外側にあるのだけど、まるで「自分の生まれを呪うがいい」とでも言うような態度を取るヒトがいる。他の事ではすごく寛容だったりすると、なおさら残念。

僕自身は、Affirmative Actionにはなんとなく釈然としない事も多いのだけど、気がつかない所でCongenitalな要素で損をする社会は理想的とは呼べない。ただ、理想的な社会がわたしたちの向かうべき社会なのかは正直分からない。僕より優秀なヒトが、僕がアジア人のマイノリティだからっていう理由で、僕に負けるとしたら、きっと複雑な気持ちになる。

ヒトが気がつかない所で色々な差別をすることが仕方がない事ならば、それを構造的に是正することがAffirmative Action。でも、その是正の結果何が生まれるのかは明確に示されているのだろうか。制度は作った時点で、誰かが有利になって誰かが不利になるものだから、Affirmative Actionは単なる制度の一つに過ぎない事は理解すべきだと思う。それが受け入れられているのは、差別はいけませんという、誰も反対出来ない「大義」があるからで、選択の一つという点では、他の制度と同じ。

アルコールが飲めない事で、コミュニケーションの一部がうまく機能しないということは仕方がない。そういうチャンネルが確かにあって、しかも特定の場面でそれが必要とされるというのも理解出来る。それで随分損してるなと思う事もあるけれど、そういうチャンネルでしか繫がる事の出来ない相手とは実はあまり重要じゃないのではないかとも思う。本当につながりたい相手とは、チャンネルを問わずに繫がるものだし、自分も相手もそのギャップをなんとか埋めようとするものだ。ヒトを引き寄せる魅力というものは、どうやって身につければいいのだろうか?もしかして、それが一番Congenitalなことなのかもしれない。もしそうなら、僕の人好きのしないところは諦めるより仕方がないってことか。

7月 10

IMG_0011

今日は先月大阪で行われたフォーラムの打ち上げで、中目黒の「まえだや」に行って来ました。前から行きたいと思ってましたが、辻さんがうまいこと予約してくれたので4人でGO。お店の構えは、実にこじんまりとしていて、テーブルが4つ、カウンターが6人分くらいのスペース。

ジンギスカンは、本当に臭みがなくて、ウマー。ブタでもウシでもトリでもない、新しい食べ物っぽい。しかも、しつこくない脂なのでするっと入る。

確かに、今まで食べたジンギスカンと比べて、頭一つ抜けてる感じがする。ついでに野菜もうまい。タマネギが甘いんだ、これが。

というわけで、ココロの底からジンギスカンを堪能しました。美味しかったなぁ。ちなみに岡田さんは、来週も来るそうです。

7月 09

IMG_0002

iPhone4が届いて1週間、ちょっと感想をまとめてみる。まず、デザインは思った以上に悪くない。というか、取り立てて良くはないけど、加工技術は優れている。とくにフレーム横のメタル部分の質感は素晴らしい。携帯でこの質感はなかなか出せない。バンパーでココを隠すのは勿体ない。裏表がわかりにくい。ついでにポケットから出す時、いつも落としそうになる。

スピードは思った程早くないというか、すぐに慣れてしまうので、何かの拍子でモタモタすると逆に腹が立つ。

で、3Gと比べて素晴らしいと思ったのがカメラの改善。光が十分だと結構うまく写る。カメラのインターフェイスも悪くない。動画撮影の切り替えも、ズームも非常に直感的に使える。動画もHDで綺麗。下の動画は東静岡に立ち上がったガンダム。

iMovieでの編集は、今ひとつまだよく分かっていないので保留。Retinaディスプレイは綺麗だけど、今までのインターフェイスが低解像度でも美しくデザインされていたので、アイコン画面ではあまり進化を感じない。ただ、写真を見るとか、テキストを見ると、もちろん解像度の高さにありがとうと言いたくなる。

バッテリは思ったより保たない。というか、iPadのバッテリが保ちすぎるので、比較の問題だけど、当然3Gよりは保つ。なぜかiPodで音楽を聴くと1時間あたり5%くらい減る。公称の40時間再生は多分無理。一番バッテリを食うのが音楽再生の気がする。

で、懸案のアンテナ問題は確かに発生する。持ち方で感度が明らかに変わる。まあ、慣れの問題だけど、下を触らないで持っていると、ちょっとオネエっぽくてイヤ。通話時のノイズキャンセリングは有効。

いずれにしても、どこをとっても順当な進化形。3Gからなら間違いなく買い。3GSからだとちょっと微妙かも。

7月 03

ここしばらく、突発的に村上春樹を大量に買い込んで読み続けている。昔読んだものも、読み損ねていたものも交えて。なぜか村上春樹は無くなりがちなので、買い直す事が多い。

特に刺さったのが、「約束された土地で:underground 2」。undergroundは地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー、underground 2はオウム信者へのインタビュー。そして最後に河合隼雄先生との対談がある。

地下鉄サリン事件は、起きてはいけない事件だったし、これからも起きて欲しくない事件。だけど、結局それは起きてしまった訳で、しかもこれからも類似の理不尽な事件は世界の国々で次々に起きるだろう。

となるなら、それを僕たちはどうやって受け入れるかが最大の問題になる。起きてしまった事は取り返しかつかない。再発防止とは別次元の、起きてしまった物事をどうやって受け止めて咀嚼するかを僕たちは考えないとならない。すでに起きてしまった事を無かった事にはできないから。そして、それは国家や共同体の問題ではなくて、あくまで個人の問題なのだ。それに関して、おそらく教育は無力。あくまで自分の問題としてそれに取り組むことが、ヒトが生き続けるという意味に他ならない。

「1Q84」には、10年以上前に河合先生との対談で示された問題点が、一つのものがたりの中のねじれとして示されている。どうしようもないことが世の中には沢山ある。そのどうしようもない事をどうしようもない事だと思えないことがヒトの不幸。怪我をした野生動物は、生きている限りどうしようもない怪我を抱えて、それを当たり前のものとして生きていく。足がちぎれたカブトムシは、何事も無かったかのように歩き続けるけど、ヒトはどうしようもないことが起きた時に、動く事をやめて立ち止まる。動き続けないと死んでしまうのに、原因を誰かに求めて泣き叫ぶ。簡単に説明出来るような原因なんかないし、何をやっても元には戻らないのに。

「現実と言うものがもともと、矛盾や混乱を含んで成立しているものである以上、それを取り除いたものはもはや現実ではない。一見整合的にみえる言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除したとしても、その排除した現実は、かならずどこかであなたを待ち伏せして復讐するでしょう」
underground 2あとがきから

つまり、現実はどんなに不味くても食べ続けて飲み込まないと次に進めない。給食を残しても、食べ終わるまで帰してもらえないように、飲み込む事を拒否した現実は、いつまでも生々しい形で目の前にありつづける。目をつぶっても、それは決して消えない。チクチクした痛みを外に抱えながら、それを無視して生きていくのか、それとも嫌々ながらも飲み込むのか、選択肢は二つだが、前に進めるのは後者のやり方しか無い。時間がかかっても、前に進むには飲み込むしかない。

実は、実験科学もそれに似た所がある。現実でない環境を現実だと言い張って実験をつづけ、その排除した現実に復讐されるという点において。

僕が科学者として直面している問題は、世界をどう受け入れるかという問題と同根なのだと思う。つまり、世界の物事を実験に落とし込む時に、現実のどこまでを刈り込むかの問題。これまでの認知科学は、全部を刈り込んだ後に何を残すかを考えていた。ぼくがやっているのは、どこまで刈り込めば、現実の形をのこしておけるかという考え方。両者は似ているようで全く違う。その違いがわからないで僕たちのやり方を批判するヒトは多いけど、そういうヒトはきっと現実に復讐される。

今日出た「考える人」の村上春樹ロングインタビューは、きっとそういう話が書いてあるんじゃないかと期待している。読むのが楽しみ。ちなみに先日の養老先生との対談も同じ号に載ってます。